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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

近世城郭の最高峰! 徳川家康が築いた名古屋城 ─理想的な縄張り! 全国から集めた職人の手による名城─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑦

家康が名古屋城築城を行った意義

豊臣秀吉の死後、徳川家康は天下に君臨したが、豊臣恩顧の武将は残り、まだ火種は消えず。
 
主従関係を明確にするとともに江戸と大坂の中間点を制圧した
 家康は、名古屋城の築城にあたり、有力大名に助役(すけやく)を命じていた。このような土木工事を天下普請(てんかぶしん)という。すでに家康は幕府の本拠である江戸城のほか、自らの隠居城とした駿府(すんぷ)城も天下普請で改修していた。
 名古屋城の築城には、加藤清正・福島正則(ふくしままさのり)・細川忠興(ほそかわただおき)・黒田長政(くろだながまさ)・浅野幸長(あさのよしなが)・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)といった西国の大名が動員された。天下普請は、家康が有力大名の経済力を弱めようとして行ったと言われているが、それだけが目的だったわけではない。
 家康は、9男・義直の居城とするため、名古屋城を築くと公言していた。有力な大名であっても、家康の子の居城を築く手伝いをしなくてはならなかったのである。『徳川実紀(とくがわじっき)』には、福島正則が「江戸・駿府は天下の重鎮なればさもあるべし、名古屋は庶子の住居なり」と不満を述べ、加藤清正に窘(たしな)められた逸話がみえている。史実かどうかは不明ながら、ありうる話ではあった。大坂城の豊臣秀頼(とよとみひでより)との一戦を想定していた家康は、豊臣恩顧(おんこ)の大名を名古屋城築城に動員することで、主従関係を明確にすることもできたのである。
 築城工事に諸大名を動員すれば、縄張の秘密が知られてしまうことになるのは言うまでもない。しかし、名古屋城の縄張は単純であり、家康はそれを気にしなかった。むしろ、鉄壁の防御を見せつけることにも目的があったように思える。
 結局、家康は西国大名を利用して名古屋城を築き、完成した名古屋城で西国大名を押さえたということになる。義直の居城とはいいつつも、実質的な目的は、家康が大坂と江戸の中間にあたる重要拠点を押さえることにあった。豊臣秀頼の軍勢が家康を攻めることがあれば、まず名古屋城で食い止めようとしたのである。

 

<名古屋に残る歴史スポット>

■尾張徳川家ゆかりの品が見られる「徳川美術館」

徳川美術館

徳川義直が譲り受けた遺産を中核として、国宝の「源氏物語絵巻」なども所蔵。
愛知県名古屋市東区徳川町1017

 

■名古屋城の総鎮守「那古野神社」那古野神社

 

名古屋の鎮守として祀られ、名古屋東照宮と並び共に桜の名所。
愛知県名古屋市中区丸の内2-3-17

 

■名古屋400年の中心地「本町通り」

名古屋

芭蕉が句を詠み、朝鮮通信使や琉球使節や象が通ったという当時の名古屋の中心。

 

■名古屋の総鎮守「若宮八幡社」

若宮八幡社

文武天皇の御代に創建。家康が名古屋の総鎮守と定めた。
愛知県名古屋市中区栄3-35-30

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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